- 1900年 - 兵庫県加古郡尾上村今福(現・加古川市尾上町今福)に、農業兼村役場吏員であり、収入役を務めた父岩崎林蔵、母りゆうの次男として生れる。
- 1906年 -
尾上村立尾上尋常高等小学校尋常科に入学。父母と同居したまま、母の妹永田てい子の養子となり、名義のみ母系永田姓を継ぐ。
- 1912年 -
尾上村立尾上尋常高等小学校高等科に進む。国語作文を好み、大町桂月の主宰誌「学生」を愛読する。級長を務める。
- 1914年 - 兵庫県立工業学校(現・兵庫県立兵庫工業高等学校)機会科に入学。神戸市内の親戚を転々と下宿し、また寄宿舎にも入る。虱をわかして上級生より制裁を受け、父母を思って泣く。旧友と文芸・回覧誌を発行し、恋愛小説の真似事のようなものを書く。活劇や新派悲劇などもよく見る。某下宿の細君の親戚筋に当たる俳人中村鷺江より俳句の話をしばしば聞くことにより、俳句に少々関心を持つようになる。
- 1917年 - 兵庫県立工業学校を卒業し、三菱製紙高砂工場に技手補として就職。月給15円。以来夜間勤務15年。「夜勤など泥棒のやることだ」と放言して、上司から叱責される。
- 1918年 - 社内クラブの謡曲部に入り、観世流謡曲と都山流尺八を習う。
- 1919年 -
抄紙機での作業中、右指組織潰滅の擦火傷を負い、三指の自由を半ば失う。治療を兼ねて郷里に滞在中、泉福寺で行われた師家雲水の禅問答を聞き、このことを契機に禅哲学に興味を抱く。
- 1920年 -
右三指損傷のため兵役免除。赤坂ユキヱと結婚。父母の家に暫く同居した後、高砂市荒井町の社宅に入居。毎日新聞兵庫版付録の俳句欄(岩木躑躅選)に投句をはじめる。
- 1922年 -
長男正誕生。大阪の俳誌「山茶花」(野村泊月選)創刊号に投句し、巻頭を占めて自信を得る。直後、田村木国の来訪を受ける。その後二年間、岩木躑躅の俳誌「いひほ」に句文をさかんに投じつつ、句友である相生垣秋津と共に神戸市楠町の岩木躑躅を再三訪問する。一方、神戸の岩谷孔雀を知り、一時師事する。「いひほ」に、右指損傷を描いた「夾竹桃咲く」が掲載され好評を得る。
- 1924年 - 六月、小山内薫の演劇誌「築地小劇場」の創刊と同時に直接購読者となる。
- 1925年 -
社内に結成された素人劇団「れいめい座」の座員となり、しばしば舞台に立つ。山本有三、正宗白鳥、武者小路実篤らの戯曲を耽読、自らも戯曲を書く。
- 1927年 - 相生垣秋津、宮富岳坊と共に俳誌「桃源」(岩木躑躅主選)を創刊(6号で休刊)。
- 1928年 - 武者小路実篤に心酔。「新しき村」入村を志すが、手の障害では農作業は無理だと断念、村外会員となる。
村の機関誌「新しき村」に、短編小説・自由詩・狂歌などをさかんに寄稿する。昭和3年6月号に、右三指損傷の技師が鯊釣をする短編小説「秋風」が掲載される。
- 1929年 -
長女深雪誕生。俳誌「山茶花」に飽き、原石鼎主宰誌の「塵火屋」、小野蕪子主宰誌の「鶏頭陣」、さらに「鹿火屋」系統の大久保鵬鳴主宰誌「たかむら」などに盛んに句文を投稿する。このころ原石鼎を敬慕する。また、小野蕪子から骨董趣味の影響を多大に受け、馬目皿・油壷・李朝水滴などを入手して狂喜する。古美術誌「茶わん」を愛読。
- 1934年 -
二月、父林蔵が死去(74歳)。処女句集『加古』(鶏頭陣社刊・命名と序文は小野蕪子)刊行。蕪子は序文で「彼の字だっておろそかな字ではない、あんな悪筆は天下に類を絶する」と記した。この頃、郷土に俳誌「尾上」(皆吉爽雨主選)が創刊されたが、「鹿火屋」その他で活躍中の耕衣は純「ホトトギス」系統ではないとの理由により、同郷でありながら疎外される。以後「ホトトギス」の党派的根性を嫌い、野人的思想を成熟させる要因となる。
- 1935年 -
工場内で俳句に関心のありそうな仲間に声をかけ、主宰俳誌「蓑虫」を創刊。同好者四十余名を育成し、「鶏頭陣」に優秀な作者を送り込んだが、16号で休刊する。俳誌「串柿」(永田竹の春主選)を知り、さかんに句文を投じる。
- 1937年 -
小野蕪子の奨めで古美術氏「茶わん」に数回随筆を発表。「鶏頭陣」の投句仲間や相生垣秋津、工楽長三郎、糟谷武美と相計り、文化趣味の会「白泥会」を結成。柳宗悦指導の民芸運動の諸作家棟方志功、河井寛次郎、濱田庄司、寿岳文章、竹中郁、阿部知二らに接する。工楽邸に棟方志功が投宿した折は個人的に訪問し、芸術論を交わす。棟方志功の生命力溢れる作品と思想が、耕衣の生の強力な支えとなる。「鶏頭陣」を介し浜田石蓮子を知り、浜田石蓮子を介して山田正平に篆刻の指導を受ける。
- 1938年 - 第二句集『傲霜』(私家版)を上梓。篆刻の上達により、棟方志功のために落款を制作し、二三個進呈する。俳誌「柿串」に新設された「阿吽抄」欄の選者になる。
- 1939年 -
京都嵯峨祇王寺の高岡智照尼(芸妓引退の後年、「ホトトギス」「鶏頭陣」等で俳句創作)の依頼により、祇王寺俳句グループの指導のため祇王寺に一泊する。以後一年間、通信による俳句添削指導を行う。網膜炎を病み、篆刻を中止。またこの年、東京麻布に原石鼎の門を叩く。
- 1940年 -
新興川柳誌「龍」(岩崎蝉古主選)に今福田吉の筆名で一年間投句し、ほぼ毎号巻頭を飾るが一年でやめる。俳誌「蠍座」(秋田県)の主選者として迎えられる。「文藝春秋」俳句欄に執筆。句集頻発を批判する。新風を求めて石田波郷主宰の「鶴」に投句。三ヶ月で巻頭となり、後に同人に推される。新興俳句総合誌「天香」にも投句。当時、新興俳句弾圧事件など、官憲による思想弾圧の険悪な時勢下にありながら、無頓着に活発な活動をする耕衣の行動を危険視した小野蕪子が、耕衣宛てて「貴下を庇護すべきや否や」と打電する。耕衣はその真意を理解し難く思いつつも、慄然として「庇護乞う」と返電して直ぐに上京し小野蕪子に会う。小野蕪子の忠告により、「文藝春秋」「俳句研究」へ執筆した原稿を取り戻す。以後、諸俳誌への多様な活動を慎む。
- 1941年 -
社内の青年学校の教師となり、昭和20年8月まで務める。製紙技術および精神主義的教養を目的とする独自の講義をする。生徒に映画を見ることを奨め、俳句の話もする。思想弾圧の危険を考慮し、一時句作を中断するが、「祖牛」の筆名でひそかに「鶴」に投句を再開。
- 1942年 - 神戸の臨済宗祥福寺の臥牛軒老師に相見、蝋八接心で坐禅する。会社の部下の若きケミスト南部謙郎の示唆により、鈴木大拙・西田幾太郎の存在を痛感。禅僧、神足興法(明石市観音禅寺)・宮崎奕保(加古川市福田寺)を知る。
- 1943年 -
太平洋戦争の激化により、発起して社内に座禅会を結成し、毎月、宮崎奕保和尚の鉗鎚を受ける。参禅者は工場長以下約30名。長男正、召集され満州に渡る(一年後フィリピン侵攻の途次、病気のため台湾にとどまり療養中敗戦)。「鶏頭陣」主宰小野蕪子死去。
- 1945年 -
食料不足を補足するため、社宅の空地を耕して野菜などを栽培し、麦の買出しに行ったりする。
- 1946年 -
長男正復員。社内短歌誌「れいめい」が刊行され、休刊までの約一年間に、短歌五十七首を発表する。『西田幾太郎博士の一周忌ときくからにこころ華やぎ蠅を打ち打つ』が処女作。俳誌「風」にさかんに句文を投じ始める。
- 1947年 - 5月13日、西東三鬼を神戸山手の三鬼館に訪問。5月12日、石田波郷、西東三鬼来訪し、耕衣宅に一泊する。「難解俳句」風評を浴びつつ辛苦していた耕衣を、波郷が「只一人の理解者があればよいではないか」とたしなめる。三鬼は耕衣の近作『かたつむりつるめば肉の喰ひ入るや』を激賞する。また三鬼は、山口誓子を研究するよう耕衣に奨める。波郷らにより「現代俳句協会」が設立され、耕衣を当初会員38名の内に加える。6月、西東三鬼・平畑静塔・波止影夫らの発案で大阪に「近畿俳句会」が結成され、月一回、大阪堂島の中村屋に集会する。この会で、平畑静塔・橋本多佳子・下村槐太・波止影夫・右城暮石・古屋秀雄・伊丹三樹彦・堀葦男・小寺正三・桂信子・火渡周平・赤尾兜子(当時京大生)らを知る。特に波止影夫は根源探求の私論および『朝顔や百たび訪はば母死なん』の耕衣近作一句に強い共鳴を示す。波止影夫・火渡周平と書簡でさかんに作品批評を交換する。波郷の病気が再発する。山口誓子主宰の「天狼」が創刊される。三鬼「激浪」創刊。三鬼居で秋元不死男を知る。東播地方(加古川市・高砂市)の俳句愛好家を中心とする俳誌「飛鳥(ひちょう)」(編集上野可空・ガリ版印刷)を創刊し、指導に当たる。
- 1948年 -
西東三鬼の推輓により「天狼」同人となる。「天狼俳句会」の規約(他結社との重籍を認めず)により、「鶴」「風」同人を辞する。「飛鳥」を解消する。「天狼」6月号に「大愚誓子」の一文を発表し、世の冷笑を買うが、以後ますます誓子一辺倒となり、「天狼」に<根源探求>の論文を展開し続ける。この頃、西東三鬼に「根源とは何か」と問われ、「東洋的無の世界だ」と答える。私家版句集『猫の足』が棟方志功の版画本として製作され、第23回国展に出品される。収録句数は17句。
- 1949年 -
1月、耕衣を指導者とするプリント俳誌「琴座(りらざ)」が誕生(三菱製紙高砂工場社員、熊谷珊花・光谷揚羽らが前年の9月に発起し、耕衣を指導者に仰ぐことを決める。発起人合議の結果、誌名を「琴座」とする。耕衣の意見により「琴」の発音をギリシャ語<リュラ>に借り、「リラザ」と命名する。6月、発行編集人名義を卜部楢男とし、以後活版印刷とする。)。吉田忠一主宰誌「断層」13号で「永田耕衣」が特集される。小寺正三・伊丹三樹彦・安川貞夫らと、大阪府池田市に日野草城を訪問する。
- 1950年 - 母が死去する。
- 1952年 -
三菱製紙高砂工場製造部長となる。
- 1953年 -
「天狼」を脱退し、「鶴」同人に復帰する。
- 1955年 - 定年退職し、神戸市須磨区に転居。毎日新聞神戸版の選者となる。第四句集『吹毛集』を刊行。詩人の西脇順三郎、高橋新吉、歌人の斎藤茂吉に傾倒。
- 1960年 -
還暦記念の第五句集『與奪鈔』を刊行。
- 1964年 -
第六句集『悪霊』刊行。奇病イズミ熱に犯され一ヶ月病臥する。
- 1969年 - 神戸新聞俳句選者となる。上京し鎌倉に棟方志功を訪ねる。
- 1973年 - 全句集『非佛』刊行。
- 1976年 -
評論集『一休存在のエロチシズム』刊行。
- 1981年 -
第十句集『殺祖』刊行。神戸新聞社「平和賞」受賞。
- 1984年 -
第十一句集『物質』刊行。兵庫県文化賞受賞。
- 1986年 - 妻ユキヱ死去する。
- 1992年 -
自伝的評論集『耕衣自伝−わが俳句人生』を刊行。
- 1995年 - 1月17日火曜日に発生した阪神大震災によって自宅の「田荷軒」が全壊。2階のトイレに閉じ込められたが奇跡的に救出され、天理教の講堂に避難。2日後、市内の同人の家に避難し、半月後、大阪府寝屋川市の特別養護老人ホームへ移り、車椅子が必要になる。
- 1996年 -
この頃、耕衣は梅を題材にした句を多く作った。しかしその後、朝食に向かう途中、転んで左上腕骨を折ったのを機に書けなくなり、創作はぴたりと止まった。秋のある日、弟子の金子晉に、手控えた一句を突然しめした。
その一句、『枯草の大孤独居士此処に居る(かれくさの だいこどくこじ ここにをる)』が絶筆絶吟となる。
- 1997年 -
耕衣が創作をやめた後、弟子らは、創刊から約五十年続く琴座の存廃を議論し、さまざまな意見が出た。金子晉が耕衣に問うたところ、耕衣は幕引きを宣言し、琴座は『琴座一・二月合併号』で終刊した。
8月25日、体調が急変し息を引き取る。兵庫県加古川市尾上町今福・泉福寺に埋葬される。戒名は生前に自ら付けた、「田荷軒夢葱耕衣居士」であった。