吉田一穂の書物

 

1926(大正15年)11月15日 金星堂


1930 (昭和5年)3月15日 厚生閣


1936 (昭和11年)12月31日 ボン書店



  

 


吉田一穂『詩集 稗子傳』

昭和51年、風鐸舎刊。初版

二重函・和紙カバー付。限定30部のうち第21番

正誤表完備。外装と内容物すべて揃いの完品。 

昭和11年にボン書店から初版刊行された吉田一穂の詩集『稗子傳』をオリジナルに忠実に復刻したもの。当個体は通常流通している限定500部本ではなく、本文用紙のすべてに最上等の手漉和紙を用いた特製限定30部本。


1948(昭和23年) 3月31日 札幌青磁社


吉田一穂 「羅甸薔薇」 (山雅房) 昭和25年6月1


1952 (昭和27年)2月29日 創元社





定本『白鳥』吉田一穂詩集 特装50部の内12番本 
山本六三銅版画2葉入内一葉サイン入 昭和51年 南柯書局
総仔牛革装天金背五段マウント 函 外函付 本体ビニールカバー




1941 (昭和16年) 一路書苑


1958 (昭和33年) 木曜書房



1972 (昭和47年)11月20日 弥生書房 特装本100部


1970 (昭和45年)9月10日 仮面社


1993(平成5年)4月 小沢書店より刊行開始 (全3巻 及び増補別巻)


1979 (昭和54年)5月30日 小沢書店より刊行開始 (全3巻)    





2004年 5月 吉田一穂/吉田一穂詩集(岩波文庫版) 加藤郁乎 編



生涯

北海道上磯郡木古内町字釜谷村の漁師の家に生まれる。1905年、後志国古平町に移り少年期を過ごす。16歳の時、北海中学校を退学し、東京の海城中学に入学。1918年(20歳)、早稲田大学高等予科文科入学。このころから「一穂」を名乗る。実家の火災により学資が途絶え、1920年に早稲田大学を退学。以後、詩人・童話作家として生涯を送る。1973年、心不全のため東京都豊島区雑司が谷の病院で死去。74歳没。墓所は古平町禅源寺。戒名は自らの撰による白林虚籟一穂居士[1]

20代では、三木露風北原白秋島木赤彦らに教えを請うた。1926年には、金子光晴らと日本詩人会を創設した。そのほか、絵本の編集長を務めた。少年期を過ごした古平を「白鳥古丹」と呼んでこよなく愛したことなどでも知られるように、一穂の詩の原点は「北海道」にあり「極北の詩人」とも呼ばれる。

息子に悪魔研究家の吉田八岑がいる。

吉田一穂に関する資料は、小樽文学館に保存されている。

一穂が靖国神社に捧げた鎮魂歌碑、詩集『海の聖母』の「漁歌」の碑、「白鳥古丹」の碑が古平町にある。

作品

一穂の詩のうち最大の評価を受けているのは、『未来者』に収録された「白鳥」である。この詩は、3連・12章の36行からなる比較的長いものであるが、それぞれの行が極めて凝縮された言葉によって書かれていることが特徴的である。

第1章は 掌に消える北斗の印。/……然れども開かねばならない、この内部の花は。 と始まる。ここで「北斗の印」は雪を意味するように、象徴・イメージの連想によって詩が形成されており、終連の また白鳥は発つ! の一句に向かってこの詩が集約されていく。

他に、『北海』という九行から成る詩は、エドガー・アラン・ポーの傑作詩篇『海中の都市(The City in the Sea)』の、すぐれた続編と呼んでもいいような詩想の高揚が感じられる。

文献

著作

定本版(全3巻・別巻[2])、1992-1993年

伝記研究

脚注

  1. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)358頁
  2. ^ 「全集 別巻」は講演・対談・補遺ほか

外部リンク